フェリックス・メンデルスゾーン

哲学者モーゼスを祖父、作曲家ファニーを姉として生まれたメンデルスゾーンは、神童として幼少期から優れた音楽の才能を示したことで知られる。彼はバッハの音楽の復興、ライプツィヒ音楽院の設立など、19世紀の音楽界に極めて大きな影響を与えた。また、作曲家としてもヴァイオリン協奏曲や「夏の夜の夢」、「フィンガルの洞窟」、無言歌集など今日でも広く知られる数々の楽曲を生み出している。

ユダヤ人の家系であったメンデルスゾーン家は言われなき迫害を受けることが多く、それはキリスト教への改宗後もほとんど変わらなかった。そのような状況にも関わらずフェリックスの業績・影響力は極めて強く、終生ドイツ音楽界の重鎮として君臨し続けた。

スラウェシ島

面積は17万4600平方キロメートルで、世界第11位、インドネシアでは第4位の大きさを誇る。西にカリマンタン島、東にマルク(モルッカ)諸島、北にセレベス海を挟んでミンダナオ島、そして南にフロレス海を挟んで小スンダ列島(ヌサ・トゥンガラ諸島)が位置する。

環太平洋造山帯とアルプス・ヒマラヤ造山帯の合流点にあるため地形は複雑でアルファベットのKの字の形状をしている。山がちな地形であり、最高所として標高3,455mのランテコムボラ山(英語版)を有し、トウティ湖(英語版)等の湖もある。そのため、各地域は交流が少なく独自性が強くなり、長らく島としての一体性が弱かった。

島の東側の3つの湾のうち、一番北のトミニ湾に浮かぶウナウナ島のコロ山は1983年に大噴火を起こしたが、全島避難により間一髪で人的被害を免れた。

ジョン・コーザイン

1947年、コーザインはイリノイ州中部で生まれ、同州テーラーヴィル近郊のの小規模な自営農場で成長した。高校を卒業後はイリノイ大学アーバナ・シャンペーン校へと進学し、学部課程を修了するとファイ・デルタ・シータの会員となり、1969年に大学を卒業した。コーザインは大学在学中にアメリカ海兵隊に入隊し、1975年まで予備役を務め、最終的に軍曹まで昇格した。

コーザインはイリノイ大学を卒業後、カリフォルニア大学ロサンゼルス校で経済学の博士号を取得する計画でいたが、1970年にベトナム戦争の現役軍務に召集されたため、コーザインはその計画を諦めた。その後1971年、予備役に戻ったコーザインはシカゴ大学経営学大学院へと進み、1973年に経営学修士を取得した。

逆コース

第二次世界大戦で敗北した日本は、ポツダム宣言と降伏文書に基づき連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)の支配下に入った。当初、GHQは「日本の民主化・非軍事化」を進めていたが、1947年に日本共産党主導の二・一ゼネストに対し、GHQが中止命令を出したのをきっかけに、日本を共産主義の防波堤にしたいアメリカ政府の思惑でこの対日占領政策は転換された。GHQのポツダム命令(「公職追放令」「団体等規正令」「占領目的阻害行為処罰令」など)は前身を含めて占領初期には非軍事化・民主化政策の推進という役割を果たしたが、占領後期には社会主義運動の取締りの役割を果たして行くようになった。

ショパン7歳

7歳のショパンはト短調と変ロ長調の2つのポロネーズを作曲した。前者は老イジドール・ヨーゼフ・チブスルキ(Izydor Józef Cybulski; 作曲家、彫刻師、オルガン学校の校長で、ポーランドで数少ない音楽出版業を営んでいた)の印刷工房で刷られ、出版された。後者は父ニコラが清書した原稿の状態で見つかっている。これらの小品はワルシャワの先導的作曲家たちの人気の「小ポロネーズ」のみならず、ミヒャウ・オジンスキの有名な「大ポロネーズ」にも匹敵する作品と言われた。この後の旋律、和声とピアノ奏法の創意工夫は、知られている次の「大ポロネーズ」変イ短調に明らかである。

欧州共同体

欧州連合条約は、欧州連合の創設について単一欧州議定書と欧州の統合に関する宣言を土台に起草されている。欧州連合条約は1992年2月7日に調印され、1993年11月1日に発効した。欧州連合とは従来の欧州諸共同体に替わるものであり、また欧州諸共同体は政策分野の欧州共同体として3つの柱構造に組み入れられた。このとき欧州経済共同体は欧州共同体に改称され、欧州連合としての初代欧州委員会委員長には、欧州経済共同体の委員長であったジャック・ドロールが、1994年にジャック・サンテールに交替するまで務めた。

日本水平社

「徹底的糾弾」方針をとっていた結成当初の全国水平社では、1923年(大正12年)11月結成の全国水平社青年同盟(いわゆる全水内「ボル派」)が次第に内部で台頭し、南梅吉(全水初代委員長)ら従来の幹部を辞任に追い込んで全水本部の主導権を掌握した。そして1926年(大正15年)の全水第5回大会では「部落差別は政治・経済・社会的側面に基づく」との認識に基づき、軍隊内差別や行政による差別を糾弾し労働者・農民の運動と結合する新方針が決議された。

以上のような「ボル派」の指導部掌握は全水内の右派や「アナ派」との対立を激化させ、彼らの離反を招く結果となった。右派の代表的存在であった南梅吉は第5回大会の新方針に反対して全水を脱退、1927年1月8日には京都で日本水平社を結成、組織を割った。

シーメンス事件

海軍は明治初年以来、イギリス・ドイツなどから艦船や装備品を購入しており、外国の造船会社相互間の競争は激しく、海軍の高級技術将校や監督官などは、その立場上各造船会社や軍需品を取り扱う企業の日本代理店との交渉や手数料をめぐって問題を起こしやすかった。

明治末期から大正初期にかけては、藩閥・軍閥に対する批判が高まった時期であり、軍の経理問題にも一般の関心が寄せられた。前年の1913年(大正2年)には大正政変・第1次護憲運動で長州閥・陸軍に攻撃の矢が向けられたが、このシーメンス事件が発覚すると、薩摩閥と海軍とに批判が集中した。

山縣有朋とヴィルヘルム2世との利害関係一致による陰謀との説があり、シーメンス事件当時検事総長だった平沼騏一郎も後に回顧録でこの説を容認している。山縣有朋は薩摩閥・海軍と対立していた長州閥・陸軍の代表的存在であった。この少し前に日本海軍の活躍により日露戦争に勝利、「日本海軍育ての親」と称される山本権兵衛が首相となった。山本権兵衛は陸軍の主張であった軍部大臣現役武官制を一部廃止、陸軍の二個師団増設案を拒否、山縣有朋が議長を務め天皇のブレーンとなっていた枢密院の定員削減などの行政改革をしながら八八艦隊建設計画予算を計上していた。

第14循環

エコノミストらの間では、いざなみ景気の他に「出島景気」「小泉景気」「構造改革景気」「いざなぎ超え景気」「無実感景気」「デジタル景気」「格差型景気」「リストラ景気」などの名称が提案されている。

中部東海地域や北九州などおもに輸出(外需)産業の集積地では雇用が逼迫し、派遣・請負労働者あるいは外国人労働者を他の地域から受け入れるなど好況に沸いた一方で賃金は下落し、大手小売や建設を筆頭とした内需・既存産業は停滞を続ける一方で首都圏都心部のサービス業における労働供給が極端に不足し賃金は上昇した。

地価についても首都圏・基幹都市の中心部は上昇する一方で地方・周辺部では停滞するなど地域・地区、業態によるまだら模様のある景況が続いた。

アルフレート・フォン・シュリーフェン

1905年に仮想敵国ロシア帝国とフランスに対する作戦計画「シュリーフェン・プラン」を考案した。この計画は大モルトケやヴァルダーゼーの基本計画を具体化したものであった。露仏両国との二正面戦争を避けるため、開戦後全力を挙げて短期間でのフランス攻略を目指し、次いで鉄道輸送を駆使して部隊を東に輸送して残る敵ロシアを攻撃するという計画であった。この計画を実現するため、シュリーフェン以後のドイツ軍は移動可能な重砲の配備や、輸送部隊を中心とする兵站の充実に力を入れた。

この計画は第一次世界大戦冒頭に改変された形で実行されるが、シュリーフェンの計画とは異なりドイツ軍の進撃はマルヌの戦いで頓挫し、以後はシュリーフェンの想定しなかった塹壕戦・総力戦に移行することになる。シュリーフェンは軍司令官というよりも作戦理論家の性格が強かった。