逆コース

第二次世界大戦で敗北した日本は、ポツダム宣言と降伏文書に基づき連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)の支配下に入った。当初、GHQは「日本の民主化・非軍事化」を進めていたが、1947年に日本共産党主導の二・一ゼネストに対し、GHQが中止命令を出したのをきっかけに、日本を共産主義の防波堤にしたいアメリカ政府の思惑でこの対日占領政策は転換された。GHQのポツダム命令(「公職追放令」「団体等規正令」「占領目的阻害行為処罰令」など)は前身を含めて占領初期には非軍事化・民主化政策の推進という役割を果たしたが、占領後期には社会主義運動の取締りの役割を果たして行くようになった。

ショパン7歳

7歳のショパンはト短調と変ロ長調の2つのポロネーズを作曲した。前者は老イジドール・ヨーゼフ・チブスルキ(Izydor Józef Cybulski; 作曲家、彫刻師、オルガン学校の校長で、ポーランドで数少ない音楽出版業を営んでいた)の印刷工房で刷られ、出版された。後者は父ニコラが清書した原稿の状態で見つかっている。これらの小品はワルシャワの先導的作曲家たちの人気の「小ポロネーズ」のみならず、ミヒャウ・オジンスキの有名な「大ポロネーズ」にも匹敵する作品と言われた。この後の旋律、和声とピアノ奏法の創意工夫は、知られている次の「大ポロネーズ」変イ短調に明らかである。

欧州共同体

欧州連合条約は、欧州連合の創設について単一欧州議定書と欧州の統合に関する宣言を土台に起草されている。欧州連合条約は1992年2月7日に調印され、1993年11月1日に発効した。欧州連合とは従来の欧州諸共同体に替わるものであり、また欧州諸共同体は政策分野の欧州共同体として3つの柱構造に組み入れられた。このとき欧州経済共同体は欧州共同体に改称され、欧州連合としての初代欧州委員会委員長には、欧州経済共同体の委員長であったジャック・ドロールが、1994年にジャック・サンテールに交替するまで務めた。

日本水平社

「徹底的糾弾」方針をとっていた結成当初の全国水平社では、1923年(大正12年)11月結成の全国水平社青年同盟(いわゆる全水内「ボル派」)が次第に内部で台頭し、南梅吉(全水初代委員長)ら従来の幹部を辞任に追い込んで全水本部の主導権を掌握した。そして1926年(大正15年)の全水第5回大会では「部落差別は政治・経済・社会的側面に基づく」との認識に基づき、軍隊内差別や行政による差別を糾弾し労働者・農民の運動と結合する新方針が決議された。

以上のような「ボル派」の指導部掌握は全水内の右派や「アナ派」との対立を激化させ、彼らの離反を招く結果となった。右派の代表的存在であった南梅吉は第5回大会の新方針に反対して全水を脱退、1927年1月8日には京都で日本水平社を結成、組織を割った。

シーメンス事件

海軍は明治初年以来、イギリス・ドイツなどから艦船や装備品を購入しており、外国の造船会社相互間の競争は激しく、海軍の高級技術将校や監督官などは、その立場上各造船会社や軍需品を取り扱う企業の日本代理店との交渉や手数料をめぐって問題を起こしやすかった。

明治末期から大正初期にかけては、藩閥・軍閥に対する批判が高まった時期であり、軍の経理問題にも一般の関心が寄せられた。前年の1913年(大正2年)には大正政変・第1次護憲運動で長州閥・陸軍に攻撃の矢が向けられたが、このシーメンス事件が発覚すると、薩摩閥と海軍とに批判が集中した。

山縣有朋とヴィルヘルム2世との利害関係一致による陰謀との説があり、シーメンス事件当時検事総長だった平沼騏一郎も後に回顧録でこの説を容認している。山縣有朋は薩摩閥・海軍と対立していた長州閥・陸軍の代表的存在であった。この少し前に日本海軍の活躍により日露戦争に勝利、「日本海軍育ての親」と称される山本権兵衛が首相となった。山本権兵衛は陸軍の主張であった軍部大臣現役武官制を一部廃止、陸軍の二個師団増設案を拒否、山縣有朋が議長を務め天皇のブレーンとなっていた枢密院の定員削減などの行政改革をしながら八八艦隊建設計画予算を計上していた。

第14循環

エコノミストらの間では、いざなみ景気の他に「出島景気」「小泉景気」「構造改革景気」「いざなぎ超え景気」「無実感景気」「デジタル景気」「格差型景気」「リストラ景気」などの名称が提案されている。

中部東海地域や北九州などおもに輸出(外需)産業の集積地では雇用が逼迫し、派遣・請負労働者あるいは外国人労働者を他の地域から受け入れるなど好況に沸いた一方で賃金は下落し、大手小売や建設を筆頭とした内需・既存産業は停滞を続ける一方で首都圏都心部のサービス業における労働供給が極端に不足し賃金は上昇した。

地価についても首都圏・基幹都市の中心部は上昇する一方で地方・周辺部では停滞するなど地域・地区、業態によるまだら模様のある景況が続いた。

アルフレート・フォン・シュリーフェン

1905年に仮想敵国ロシア帝国とフランスに対する作戦計画「シュリーフェン・プラン」を考案した。この計画は大モルトケやヴァルダーゼーの基本計画を具体化したものであった。露仏両国との二正面戦争を避けるため、開戦後全力を挙げて短期間でのフランス攻略を目指し、次いで鉄道輸送を駆使して部隊を東に輸送して残る敵ロシアを攻撃するという計画であった。この計画を実現するため、シュリーフェン以後のドイツ軍は移動可能な重砲の配備や、輸送部隊を中心とする兵站の充実に力を入れた。

この計画は第一次世界大戦冒頭に改変された形で実行されるが、シュリーフェンの計画とは異なりドイツ軍の進撃はマルヌの戦いで頓挫し、以後はシュリーフェンの想定しなかった塹壕戦・総力戦に移行することになる。シュリーフェンは軍司令官というよりも作戦理論家の性格が強かった。

日野事件

1951年10月18日午前11時30分、滋賀県蒲生郡桜川村(現・東近江市)に、在日朝鮮統一民主戦線や祖国防衛隊のメンバーが集結し、自転車にスピーカーを取り付けて自転車デモを行おうとした。滋賀県公安条例の届出を出していない違法デモであった。

国家地方警察滋賀県本部蒲生東地区警察署では、これを制止しようとしたが、デモ隊は強行突破し、日野町内に侵入した。

デモ隊は日野郵便局(現在の近江日野郵便局)前で「朝鮮人強制送還反対」「軍事基地化反対」などの演説を行った。その間、周辺在住の朝鮮人が集まり、ピケを張ったりバリケードを作ったりした。

そして、警官隊に向かって投石したり、棍棒で襲い掛かったり、拳銃を奪ったりしたため、公務執行妨害罪で20人を検挙した。

大河津分水

越後平野は古代において海面下にあり、信濃川や阿賀野川が運んでくる沖積土砂により低湿地として埋め立てられた沖積平野である。そのため川の水面よりも低い土地がかなりの面積を占め、ひとたび洪水が発生すると水がすぐに溢れ、しかも行き場のない水が容易に引かないという状態であった。

そこで享保年間に三島郡寺泊(現長岡市)の豪商、本間屋数右衛門らが江戸幕府に対し分水建設を請願したが、許可されなかった。1842年(天保13年)には幕府も計画調査を実施したが、莫大な費用及び周辺集落の反対により起工には至らなかった。この間にもたびたび大洪水が発生し、明治維新後の1869年に白根の庄屋、田沢与左衛門らが分水工事を越後府に請願。ようやく分水工事を行うことが決定し、1870年に工事が始められた。だが技術的な問題や地元の負担、及び水量の減少により河口部に立地する新潟港の維持が出来なくなる事を危惧した新潟町民等による反対運動や、これらの不満を糾合した一揆(悌輔騒動)が発生した。ついに1875年工事は中止になり、その替わりとして翌1876年信濃川河身改修事業に着手した。

鉄道院

日本の鉄道の所管官庁は1871年(新橋 – 横浜間鉄道開業の前年)に設置された工部省鉄道寮(のち工部省鉄道局)が最初である。1885年に工部省が廃止されると鉄道局は内閣の直属となった。1890年には内務省外局の鉄道庁に改組されたが、1892年には逓信省外局に変わり、その翌年には内局化され逓信省鉄道局となった。さらに同局の現業部門が1897年に逓信省外局の鉄道作業局(1907年に帝国鉄道庁に改組)に分離され、鉄道局は監督行政のみを受け持つことになった。

相次ぐ鉄道行政の所管変更、監督組織と現業組織の分離による混乱は、鉄道国有化問題をきっかけに社会問題となった。このため政府は1908年12月5日、鉄道局と帝国鉄道庁を統合した内閣鉄道院を新設し、再び内閣の直属機関とした。

初代総裁は後藤新平であり、その下に総裁官房と総務・運輸・建設・計理の4部と鉄道調査所が置かれた。北海道(北海道および青函航路所管・札幌)、東部(東北線所管・上野)、中部(東海道線および中央線所管・新橋)、西部(山陽線・四国および関門・関釜航路所管、神戸)、九州(九州所管・門司)に鉄道管理局が設置され、各地の運輸事務所と保線事務所(その後一時廃止され1913年復活)、工場などを統括した。このほか関東庁および拓殖局とともに南満州鉄道(満鉄)の監督権も所管し、同社の鉄道事業に関して監督した。