山海関と呼ばれる様になるまで

この地域は周の時代には燕の地であり、秦、漢時代には遼西郡に属した。背後の燕山が渤海に迫る狭隘なこの地区は、満州方面から中原に向かう軍は必ず通らなくてはならない交通の要所で、いわゆる「兵家必争之地」であった。満州の女真に対する防備の要衝であったため古代から城壁が築かれ、漢代は既に臨楡関と称されていた。隋や唐時代にも長城の一部として拡張が重ねられ、現在も当時の城壁が残る。

明代の洪武十四年(1381年),将軍の徐達が整備を行い、山と海の間にあることから山海衛と命名して永平府の管轄とし、後に山海関と称されるようになった。清代以降は行政区画名は臨楡県と改称されたが、現代では山海関の名称が行政区画名となり現在に至る。