第14循環

エコノミストらの間では、いざなみ景気の他に「出島景気」「小泉景気」「構造改革景気」「いざなぎ超え景気」「無実感景気」「デジタル景気」「格差型景気」「リストラ景気」などの名称が提案されている。

中部東海地域や北九州などおもに輸出(外需)産業の集積地では雇用が逼迫し、派遣・請負労働者あるいは外国人労働者を他の地域から受け入れるなど好況に沸いた一方で賃金は下落し、大手小売や建設を筆頭とした内需・既存産業は停滞を続ける一方で首都圏都心部のサービス業における労働供給が極端に不足し賃金は上昇した。

地価についても首都圏・基幹都市の中心部は上昇する一方で地方・周辺部では停滞するなど地域・地区、業態によるまだら模様のある景況が続いた。

アルフレート・フォン・シュリーフェン

1905年に仮想敵国ロシア帝国とフランスに対する作戦計画「シュリーフェン・プラン」を考案した。この計画は大モルトケやヴァルダーゼーの基本計画を具体化したものであった。露仏両国との二正面戦争を避けるため、開戦後全力を挙げて短期間でのフランス攻略を目指し、次いで鉄道輸送を駆使して部隊を東に輸送して残る敵ロシアを攻撃するという計画であった。この計画を実現するため、シュリーフェン以後のドイツ軍は移動可能な重砲の配備や、輸送部隊を中心とする兵站の充実に力を入れた。

この計画は第一次世界大戦冒頭に改変された形で実行されるが、シュリーフェンの計画とは異なりドイツ軍の進撃はマルヌの戦いで頓挫し、以後はシュリーフェンの想定しなかった塹壕戦・総力戦に移行することになる。シュリーフェンは軍司令官というよりも作戦理論家の性格が強かった。

日野事件

1951年10月18日午前11時30分、滋賀県蒲生郡桜川村(現・東近江市)に、在日朝鮮統一民主戦線や祖国防衛隊のメンバーが集結し、自転車にスピーカーを取り付けて自転車デモを行おうとした。滋賀県公安条例の届出を出していない違法デモであった。

国家地方警察滋賀県本部蒲生東地区警察署では、これを制止しようとしたが、デモ隊は強行突破し、日野町内に侵入した。

デモ隊は日野郵便局(現在の近江日野郵便局)前で「朝鮮人強制送還反対」「軍事基地化反対」などの演説を行った。その間、周辺在住の朝鮮人が集まり、ピケを張ったりバリケードを作ったりした。

そして、警官隊に向かって投石したり、棍棒で襲い掛かったり、拳銃を奪ったりしたため、公務執行妨害罪で20人を検挙した。

大河津分水

越後平野は古代において海面下にあり、信濃川や阿賀野川が運んでくる沖積土砂により低湿地として埋め立てられた沖積平野である。そのため川の水面よりも低い土地がかなりの面積を占め、ひとたび洪水が発生すると水がすぐに溢れ、しかも行き場のない水が容易に引かないという状態であった。

そこで享保年間に三島郡寺泊(現長岡市)の豪商、本間屋数右衛門らが江戸幕府に対し分水建設を請願したが、許可されなかった。1842年(天保13年)には幕府も計画調査を実施したが、莫大な費用及び周辺集落の反対により起工には至らなかった。この間にもたびたび大洪水が発生し、明治維新後の1869年に白根の庄屋、田沢与左衛門らが分水工事を越後府に請願。ようやく分水工事を行うことが決定し、1870年に工事が始められた。だが技術的な問題や地元の負担、及び水量の減少により河口部に立地する新潟港の維持が出来なくなる事を危惧した新潟町民等による反対運動や、これらの不満を糾合した一揆(悌輔騒動)が発生した。ついに1875年工事は中止になり、その替わりとして翌1876年信濃川河身改修事業に着手した。

鉄道院

日本の鉄道の所管官庁は1871年(新橋 – 横浜間鉄道開業の前年)に設置された工部省鉄道寮(のち工部省鉄道局)が最初である。1885年に工部省が廃止されると鉄道局は内閣の直属となった。1890年には内務省外局の鉄道庁に改組されたが、1892年には逓信省外局に変わり、その翌年には内局化され逓信省鉄道局となった。さらに同局の現業部門が1897年に逓信省外局の鉄道作業局(1907年に帝国鉄道庁に改組)に分離され、鉄道局は監督行政のみを受け持つことになった。

相次ぐ鉄道行政の所管変更、監督組織と現業組織の分離による混乱は、鉄道国有化問題をきっかけに社会問題となった。このため政府は1908年12月5日、鉄道局と帝国鉄道庁を統合した内閣鉄道院を新設し、再び内閣の直属機関とした。

初代総裁は後藤新平であり、その下に総裁官房と総務・運輸・建設・計理の4部と鉄道調査所が置かれた。北海道(北海道および青函航路所管・札幌)、東部(東北線所管・上野)、中部(東海道線および中央線所管・新橋)、西部(山陽線・四国および関門・関釜航路所管、神戸)、九州(九州所管・門司)に鉄道管理局が設置され、各地の運輸事務所と保線事務所(その後一時廃止され1913年復活)、工場などを統括した。このほか関東庁および拓殖局とともに南満州鉄道(満鉄)の監督権も所管し、同社の鉄道事業に関して監督した。

山海関と呼ばれる様になるまで

この地域は周の時代には燕の地であり、秦、漢時代には遼西郡に属した。背後の燕山が渤海に迫る狭隘なこの地区は、満州方面から中原に向かう軍は必ず通らなくてはならない交通の要所で、いわゆる「兵家必争之地」であった。満州の女真に対する防備の要衝であったため古代から城壁が築かれ、漢代は既に臨楡関と称されていた。隋や唐時代にも長城の一部として拡張が重ねられ、現在も当時の城壁が残る。

明代の洪武十四年(1381年),将軍の徐達が整備を行い、山と海の間にあることから山海衛と命名して永平府の管轄とし、後に山海関と称されるようになった。清代以降は行政区画名は臨楡県と改称されたが、現代では山海関の名称が行政区画名となり現在に至る。

エドワード6世は9歳で

ヘンリー8世の男児で唯一存命していたエドワードは、父の死に伴い9歳で即位した。ヘンリー8世は幼い息子を一握りの権臣が操ることを警戒し、顧問団に集団で補佐させるよう遺言を書いていたが、エドワードの母方の伯父であるエドワード・シーモアが握りつぶした。エドワード・シーモアはエドワード6世の即位直前にサマセット公位を創設し、自ら護国卿(摂政)となってイングランドの事実上の支配者となった。

ヘンリー8世は生前、エドワードをスコットランド女王メアリー・ステュアートと結婚させ、スコットランドをイングランド管理下に置く構想を持っていた。エドワード・シーモアはこれを引き継ぎ、スコットランドに攻め込んでメアリーを連れ去ろうとした。しかし1548年、メアリーの母でスコットランドの摂政皇太后であったメアリー・オブ・ギーズが、自らの母国フランスの王太子フランソワ(フランソワ2世)とメアリーを結婚させたため、この計画は実現しなかった。

横浜マリンタワー

1959年横浜港開港100周年記念行事の流れの中から、横浜港を象徴するモニュメントを建設しようという計画が起こり1961年に建設された。日本の高い塔は、ほとんどが4角型で建設されているが、設計デザインの段階で20種類以上の案が提出され、海上からでも陸上からでも、どの角度からも同じ姿に見えるというメリットから10角型のスタイルが選ばれたといわれている。

高さ106m。12,000トン。灯台を意識したデザインとなっており、実際に頭頂部には灯台としての機能も併せ持っていた。ギネスブックにも最も高い灯台として記録されていたが、実際に近隣を航行する船舶に対し灯台としての重要度はあまり高くなかった。改装工事の必要もあり、灯台の機能は2008年7月28日未明をもって休止し、9月1日に廃止された。

無理は禁物

杉本彩さんが少し前に、救急搬送されましたね。

東京・高輪のクラブeXで行われたイベント「ストレッチダイエット カラダ総選挙2」の特別審査員を務めるため、自宅がある京都から新幹線で午後1時ごろ会場入り。楽屋で待機中の同2時ごろ、急に息苦しくなり、立つことができなくなったため救急車を呼び、病院へ。点滴による応急処置を受けた後、同5時半ごろに会場へ戻って、イベントには予定通り出席したそうです。

無理がたたった、という事ですが、ダイエット絡みのイベントという事もあり、より健康には気を付けないといけないところでしょう。

ダイエットも無理は禁物。安全なダイエットを探す上で、酵素ダイエット 方法等色々チェックしてみてから取り組むのをお勧めします。

冥王星と海王星は

冥王星が発見されるまでの歴史は、海王星の発見および天王星の存在と密接に結びついている。1840年代、ユルバン・ルヴェリエとジョン・クーチ・アダムズはニュートン力学を用いて、天王星の軌道における摂動の分析から、当時未発見の惑星だった海王星の位置を正確に予測した。摂動は他の惑星から重力で引かれることで起こるということが理論化され、ヨハン・ゴットフリート・ガレが海王星を1846年9月23日に発見した。

天文学者たちは19世紀後半の海王星の観測から、天王星の軌道が海王星に乱されていたのと同じように、海王星の軌道もまた他の未発見の惑星(「惑星X」)によって乱されていると推測し始めた。1909年までに、ウィリアム・ヘンリー・ピッカリングとパーシヴァル・ローウェルは、そのような惑星が存在する可能性のある天球座標をいくつか提唱した。1911年5月には、インド人の天文学者ヴェンカテシュ・ケタカルによる、未発見の惑星の位置を予測した計算がフランス天文学協会の会報で公表された。